リード
中東における米国とイランの軍事衝突の激化を受け、原油価格が再び1バレル100ドルの大台に乗せた。7月23日には、ブレント原油先物が前日比7%高の100.69ドルまで上昇し、5月22日以来の高値を記録している[6][7]。イエメンのフーシ派によるサウジアラビアのタンカーへの攻撃や、米国によるイランへの空爆など、供給網を断絶させかねない事態が市場の緊張を極限まで高めている[7][8]。こうした事象を学術的な視点で見つめ直すと、地政学的リスクが単なる供給不足だけでなく、需要の減退や資本の移動を通じて経済に複雑な影響を及ぼす構造が見えてくる。
何が起きたか
2026年7月23日、イエメンのフーシ派が紅海を航行中のサウジアラビアのタンカー2隻を攻撃したと発表した[6][7]。この攻撃により、うち1隻が火災に見舞われたことがサウジアラビア国営通信(SPA)によって確認されている[7]。これに呼応するように、米国軍はイランの軍事・商業施設を標的とした空爆を7月24日未明にかけて実施した[8]。米国の中央軍(CENTCOM)は、地域内の民間船や商船への脅威を排除するための措置であると説明している[8]。こうした軍事行動の激化を受け、原油価格は急騰した。7月23日の終値で、ブレント原油先物は1バレル100.69ドルに達し、WTI原油先物も92.19ドルと、6月4日以来の高値を記録した[6][7]。価格上昇の背景には、ホルムズ海峡やバブ・エル・マンデブ海峡といった、世界の石油供給の約4分の1を担う重要航路の閉鎖リスクがある[7]。また、米国のドナルド・トランプ大統領がイランに対する大規模な軍事攻撃の可能性を示唆していることも、市場の不安を煽る要因となっている[4][5]。
研究が示してきたこと
地政学的リスク(GPR)が経済に与える影響については、これまで複数の研究が示してきた。2018年のDario Caldara氏とMatteo Iacoviello氏による研究[10]は、地政学的リスクの指標を定義し、その影響を分析した。彼らは、地政学的リスクが高まると、実体経済活動が減退し、株式リターンが低下するだけでなく、資本が新興国から先進国へと流出する動きが生じることを示した。また、この研究では、地政学的リスクによる悪影響の多くは、実際に紛争が起こる「行為」そのものよりも、紛争が起こるかもしれないという「脅威」によって引き起こされることを明らかにしている[10]。2019年のJuncal Cuñado氏らによる研究[9]は、地政学的リスクが原油価格に与える影響を分析した。彼らは、地政学的リスクが一般的に原油の収益率に負の影響を与えることを示した。これは、地政学的緊張が高まることで世界的な経済活動が停滞し、結果として石油需要が減少するためである。この研究は、地政学的リスクをすべて「供給ショック」として捉えることへの警鐘となっている[9]。2023年のManuel Monge氏らによる研究[11]は、地政学的リスクが原油価格と運賃指数(バルチック海運指数)に与える影響を分析した。彼らは、地政学的リスクが外部ショックとして発生した場合、運賃指数は元のトレンドに戻る傾向がある一方で、WTI原油価格は異なる挙動を示すことを示した[11]。
ニュースを研究で読み直す
今回の原油価格の高騰は、地政学的リスクが供給不安を通じて価格を押し上げるという、典型的なシナリオを反映している。フーシ派によるタンカー攻撃やホルムズ海峡の閉鎖リスクは、物理的な供給断絶の懸念を直接的に高めている[6][7]。しかし、学術的な知見を照らし合わせると、事態はより複雑な様相を呈していることがわかる。2019年の研究[9]が指摘するように、地政学的リスクは需要の減退を通じて価格にマイナスの影響を与える側面を持つ。今回の事象においても、米国の軍事介入の拡大や中東情勢の不安定化は、世界経済の減速を招き、長期的には石油需要を抑制する要因になり得る[2]。また、2018年の研究[10]が示した「脅威による影響」という視点は、現在の市場動向を説明する上で重要である。トランプ大統領による「大規模な軍事報復」という発言や、フーシ派による封鎖宣言といった「脅威」そのものが、実際の供給不足が顕在化する前から、投機的な動きや資本の移動を誘発し、価格を押し上げている側面がある[4][5]。つまり、現在の価格高騰は、物理的な供給不足と、将来の経済停滞および紛争拡大への「脅威」が混ざり合った結果であるといえる。
残された問い
今回の事象は、研究がまだ十分に解明できていない新たな問いを突きつけている。第一に、地政学的リスクが「供給ショック」として働くのか、それとも「需要減退要因」として働くのかという、相反する力の均衡点がどこにあるのかという点だ。現在の価格高騰は供給不安に主導されているように見えるが、もし紛争が長期化し、世界経済が深刻な停滞に陥れば、需要減退による価格下落圧力が、供給不安による上昇圧力を上回る可能性がある[9]。第二に、地政学的リスクが「行為」ではなく「脅威」によって価格を動かすというメカニズムが、どの程度の規模の紛争において、どの程度の期間持続するのかという点である[10]。今回の事象のように、主要な航路が封鎖されるという具体的な「行為」が伴う場合、従来の「脅威」に基づくモデルでは予測しきれない、非線形な価格変動が起こる可能性がある。
日本から見ると
中東の地政学的リスクが原油価格を押し上げる構造は、エネルギー自給率の低い日本にとって極めて深刻な意味を持つ。原油価格の上昇は、国内の燃料価格や電気料金の増大に直結し、家計や産業のコストを圧迫する。特に、今回の事象のように、価格上昇が「供給不安」だけでなく「世界的な経済停滞の予兆」を含んでいる場合、日本経済への影響は二重となる。エネルギーコストの増大によるインフレ圧力と、世界的な需要減退による輸出産業の停滞という、スタグフレーション的なリスクが同時に浮上する可能性がある。地政学的リスクが単なる「資源価格の問題」ではなく、マクロ経済全体の不確実性を高める要因であることを、政策立案や企業戦略の観点から改めて認識する必要がある。