リード
ベオグラードのカフェでテレビ画面を眺めると、モノクロームの古い映画シーンと、緑のピッチを走る赤と白のユニホームが交互に映し出されていた。7月21日、セルビアの街角は深い哀悼と熱狂的な歓喜という、対照的な二つの感情に包まれた[1][3]。バルカン半島全体で愛された伝説的アーティストの訃報が駆け巡る一方で、地元市民が熱狂するサッカークラブが欧州最高峰の舞台に向けて鮮やかな勝利を収めたためだ[1][3]。さらに北部の大地では、国境を越えて映画文化を讃え合う伝統の映画祭が開かれ、人々の視線を集めている[2]。歴史の重みと日常の娯楽が背中合わせに存在するセルビアの「今」の空気を伝える。
伝説の歌姫カタリーナ氏の死、誇り高きバルカン文化の記憶
7月21日、旧ユーゴスラビア時代から多大な影響力を誇った女優であり歌手のオリヴェラ・カタリーナ(オリヴェラ・カタリーナ・シャキッチ)氏が87歳で死去したことが報じられ、現地メディアは一斉にその足跡を讃えた[1]。カタリーナ氏は、アレクサンダル・ペトロヴィッチ監督の映画『羽毛拾い』で主演を務め、カンヌ国際映画祭での受賞や米アカデミー賞ノミネートを果たして一躍世界的な存在となった[1]。『軍人』や『パルチザン』などの名作に出演したほか、2008年の映画『オルギエンカのためのチャールストン』まで息の長い演技を続け、著書も出版するなど多彩な才能を発揮した[1]。また、卓越した歌唱力で世界の著名なコンサートホールに立ち、哀愁を帯びた独特の歌声で聴衆を魅了した[1]。現地紙の速報記事では「私たちの時代を象徴する大アーティストが去った」と悼む声が広がった[7]。ラジオから彼女の歌声が流れる中、国民は古き良きユーゴスラビア文化の豊かな遺産に思いを馳せている。過酷な歴史を生き抜いてきた現地の生活者にとって、彼女の存在はバルカン独自の文化的誇りそのものだった[1]。
「欧州映画こそ故郷」パリチ映画祭で描く国境なきアイデンティティ
セルビア北部の都市スボティツァ近郊で開催されているパリチ映画祭で7月21日、ハンガリーのコーネル・ムンドルツォ監督に、生涯功労賞である「アレクサンダー・リフカ賞」が贈られた[2]。12年前に映画『ホワイト・ゴッド』でカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門賞を獲得したムンドルツォ監督は、ヴァネッサ・カービー主演の『Pieces of a Woman』などを手がけ、近年はハリウッドでも躍進している[2]。しかし、授賞式の壇上で彼は「ヨーロッパ映画こそが私の故郷だ」と語り、自らの根底にある思想を明かした[2]。同氏は現地紙『ポリティカ』の取材に対して「受賞の知らせを受けたとき、自分の作品が人々に届き、愛されていたのだと確信でき、人間への信頼が強まった」と率直な喜びを口にした[2]。さらに「アメリカで映画を作っていても自身の根っこは重要であり、欧州映画は米国の作品よりもはるかに革新的で勇気がある」と主張している[2]。国境の近いこの地域で、自身の個人的な家族史に基づく作品『Evolution』などを上映してきた監督の言葉は、多様な文化が交錯するバルカンの映画ファンに深い共感をもって受け止められている[2]。
欧州CL予選で4点圧勝、ツルヴェナ・ズヴェズダが見せた圧倒的強さ
セルビアのサッカーファンを歓喜させたのは、国内屈指の強豪ツルヴェナ・ズヴェズダ(レッドスター)の快勝劇だ。7月21日に報じられた欧州チャンピオンズリーグ(CL)予選2回戦第1戦で、チームはアウェーで北アイルランドのラーンと対戦し、4-0という完璧な結果で初戦を飾った[3]。試合は序盤からツルヴェナ・ズヴェズダが主導権を握り、25分にFWドゥアルテ選手が相手のハンドで得たペナルティーキックを落ち着いて決めて先制[3]。後半に入ると途中出場したブカリ選手の華麗なドリブルから若手のコストフ選手が追加点を奪い、67分には再びドゥアルテ選手がこの日2点目となるゴールをネットに突き刺した[3]。韓国代表のソル・ヨンウ選手が前半20分に不要なカードを受ける場面もあったものの、守備陣も相手の反撃をゼロに抑え込んだ[3]。現地サポーターは「すでに勝負は決した」と沸き立ち、欧州最高峰の本戦出場に向けた期待を一気に高めている[3]。激しい熱気で知られるセルビアのスポーツ文化において、クラブの欧州舞台での躍進は日々の活力を生み出す最大の原動力となっている[3]。
背景を少し
セルビアにおける文化やスポーツの熱気には、旧ユーゴスラビア時代からの歴史的背景が色濃く反映されている。今回訃報が伝えられたオリヴェラ・カタリーナ氏が脚光を浴びた映画『羽毛拾い』は、1967年のカンヌ国際映画祭で受賞を果たし、バルカン地域の映画芸術の高さを世界に知らしめた金字塔とされる[8]。共産主義体制下のユーゴスラビアにおいて、彼女のような歌手や女優は国家の象徴としてだけでなく、多民族が共存する複雑な地域の「心の拠り所」としての役割を果たしてきた[1][7]。また、今回のパリチ映画祭のように、ハンガリー国境に近いスボティツァ周辺で国際映画祭が定着している背景には、古くから多様な民族や言語が交差してきた土地柄がある[2]。スポーツへの熱狂も同様で、欧州最高峰の舞台に挑むツルヴェナ・ズヴェズダの誇りは、世代を超えてセルビア人のアイデンティティを支え続けている[3]。
日本から見ると
遠く離れたセルビアの日常を眺めると、自国の文化的アイデンティティに対する強い自負と親密さが伝わってくる。大女優の死去を国全体で悼み、過去の名作や歌声を振り返る姿勢は、日本の昭和を彩った名優を偲ぶ空気に通じるものがある。一方で、映画監督が「ヨーロッパ映画こそ故郷だ」と語るように、地理的・歴史的に地続きの国々の中で自らのアイデンティティを捉える感覚は、島国である日本にはないスケール感だ。また、激しい歴史の波をくぐり抜けてきたセルビアにおいて、サッカーの快勝や映画祭の華やかさは、人々に連帯感と生きるエネルギーを与える切実な装置として機能している。グローバル化が進む現代においても、地域に深く根ざした文化やスポーツの熱量は、生活者の日常を支える確かな灯火となっている。