リード
夏の終わりの乾いた風が吹くロシア南部の農村で、一人の年金生活者が「英雄」か「犯罪者」かの瀬戸際に立たされていた。ボルゴグラード州の農夫、ニコライ・ムヒンさん(66)が、自宅の空を飛ぶ不審な物体に向けて猟銃の引き金を引いたのは5月21日の夜のことだ[1]。静かな農村の夜空に響いた銃声と、その後に聞こえた爆発音。彼が狙ったのは、サラトフ方面へと飛行していた4機のウクライナ製無人機(UAV)だった[1]。当初、当局はこの行為を違法な発砲として罰金を科したが、8月20日、ロシア最高裁判所の要請を受けた再審理の結果、事態は一転した。裁判所は「彼が与えた損害は、防いだ損害よりも小さい」と結論づけ、ムヒンさんの行為を正当な「緊急避難」と認めたのである[1]。
「ドローンを撃った農夫」に下された司法のリアリズム
ボルゴグラード州裁判所が8月20日に公開した資料によれば、ムヒンさんへの罰金刑は取り消され、没収されていた銃も本人の元へ戻されることになった[1]。裁判所がこの判断を下した背景には、事件当時、同州に「ドローン脅威警戒モード」が発令されていたという事実がある[1]。ムヒンさんは警察の調べに対し、夜空に航空機型のドローンが4機飛んでいるのを見つけ、反射的にライフルを手に取ったと説明している[1]。一審では行政責任を問われたが、地域裁判所は「極限の必要性(緊急避難)」があったとする行政法第24.5条を適用した[1]。この判決は、国境付近や後方の農村地帯で暮らすロシアの人々にとって、単なる一法廷ニュース以上の意味を持っている。ドローンがいつ頭上を飛んでもおかしくない日常において、自分の土地や家族を守るために引き金を引く行為が、国家によって「正当」と追認されたからだ。判決文に刻まれた「防いだ損害の方が大きい」という言葉は、法理を超えて、今のロシア社会が直面している切実な生存本能を肯定しているように聞こえる[1]。
北極圏の孤島で「BRICS世代」がゴミを拾う日
戦火の影が差す一方で、ロシアは北極圏の孤島を舞台にした新しい国際交流の形を模索している。8月20日、ネリヤン・マルで開催された環境フォーラムにおいて、環境保護団体「クリーン・アークティック」のリーダー、アンドレイ・ナギビン氏は、スヴァールバル諸島(スピッツベルゲン)にBRICS諸国の若者を招く国際ボランティアキャンプの構想を発表した[2]。「インド、中国、ブラジルの若者たちに、我々の歴史とロシアの北極に対する細やかな配慮を見てもらうことは、非常に興味深い試みになるだろう」とナギビン氏は語る[2]。このキャンプは、北極圏のゴミを共同で清掃するための常設プラットフォームとなる計画だ[2]。すでに6月には、ロシアの国営信託会社「アルクティクウゴル」の支援を受け、バレンツブルクやピラミダといったロシア人居住区での清掃活動が始まっている[2]。回収されたスクラップメタルはコンテナに詰められ、貨物船でムルマンスクへと運ばれ、リサイクルに回される[2]。アルクティクウゴルのイゴール・レボネンコ副CEOは、8月23日から24日にかけての週末にバレンツブルク港でコンテナの積み込みを行い、8月末までにはムルマンスクに到着する見込みだと述べている[2]。かつての炭鉱の島は今、新興国との絆を深める「エコ外交」の最前線へと姿を変えようとしている。
北極の「苔」が水を救う、ロシア流のサステナブル
ハイテクな浄水器が手に入りにくくなっても、ロシアの科学者たちは足元の自然に目を向けている。ペトロザヴォーツク州立大学の研究チームは、北極圏に自生する「ミズゴケ(スファグナム・モス)」を活用した新しい浄水剤を開発し、特許を取得した[3]。8月20日にロシア科学・高等教育省が発表したところによれば、この苔を物理化学的に加工することで、重金属や石油製品を吸着する能力を劇的に高めることに成功したという[3]。この「苔フィルター」は、都市や工場の排水処理施設に組み込むことが想定されている[3]。研究者たちは、苔が重金属を吸着する分子メカズムを解明し、特定の性能を持つ吸着剤を製造するためのモデルも構築した[3]。特筆すべきは、これが制裁下における「輸入代替」の一環として位置づけられている点だ[3]。ロシア北極圏の再生可能な植物資源を使うことで、これまで海外から輸入していた浄水製品を置き換えることができると科学省は期待を寄せている[3]。過酷な自然環境が生んだ強靭な苔が、皮肉にも現代の産業汚染から水を守る盾となる。ロシアの暮らしの知恵と科学が融合した、極めて実利的なアプローチである。
背景を少し
ロシアが現在、経済や文化の軸足を急速に「東」へと移している背景には、欧米による経済制裁とそれに対する反発がある。8月19日から20日にかけてタジキスタンの首都ドゥシャンベで開催されたビジネスミッションには、ロシアの農業、医薬品、建設資材などの企業20社が参加し、タジキスタン側からは120社もの企業が集まった[6]。ロシア輸出センター(REC)のタジキスタン事務所長、マゴメド・タシュタミロフ氏によれば、両国はロシア製品の輸入拡大に向けた協議を行っている[6]。また、ネット文化においても変化が起きている。中国の動画プラットフォーム「Bilibili(ビリビリ)」が8月20日、Google Playストアで国際版アプリをリリースした[5]。12時間で500万ダウンロードを記録したこのプラットフォームは、アニメや若者文化に強く、YouTubeなどの西側サービスが制限されるロシアの若者にとっても、新しいエンタメの窓口としての存在感を高めている[5]。
日本から見ると
ドローンを撃ち落とした農夫が無罪になるというニュースは、島国で平和を享受する日本の感覚からすれば、遠い世界の出来事のように思えるかもしれない。しかし、そこにあるのは「自分の暮らしは自分で守るしかない」という、極限状態における究極の自己責任の姿だ。一方で、北極の苔を浄水剤にするような、身近な資源を徹底的に使い倒す「サステナブル」な姿勢は、かつての日本が持っていた暮らしの知恵にも通じるものがある。制裁によって欧米のブランドやサービスが消えた街角で、中国の動画アプリを楽しみ、タジキスタンの商人と握手を交わす。そんなロシアの日常は、私たちが知る「かつての国際化」とは全く別のベクトルで動き出している。政治的な対立の裏側で、生活者たちは新しいネットワークを築き、独自の適応を遂げている。その逞しさと、どこか危うい均衡の上に成り立つ日常の風景は、今の世界が抱える複雑な断層をそのまま映し出している。