リード
黄金色に焼き上がったパンの塊を、誰かがゆっくりと割く。湯気とともに、雲のように柔らかな内層が露わになる──そんなTikTok動画が、いまイギリスの朝の食卓を変えている[1]。日本では当たり前の「しょくぱん」が「Japanese milk bread」として脚光を浴び、スーパーの検索数は前月比で617%も跳ね上がった[1][6]。同じ週末、シェイクスピアの生誕地ストラトフォード・アポン・エイボンでは、ゲーム・オブ・スローンズの前日譚を描く舞台の幕が開き、批評家の賛否が割れている[4]。その一方で、ペンブルックシャーの海岸では、架空の屋敷しもべ妖精「ドビー」の墓を守るため、4億3000万ポンド(約860億円)の送電線計画のルートが変更されていた[2]。現実と虚構、伝統とデジタルが混じり合う、2026年8月の英国の空気を歩く。
スーパーを席巻、TikTok発「しょくぱん」の魔力
スーパー「ウェイトローズ」の世界食品担当プロダクトデベロッパー、エミリー・ウルフマンは、日本のミルクブレッドの流行を「SNSから一般家庭のキッチンへとクロスオーバーした、最もエキサイティングな食品トレンドの一つ」とBBCに語った[1]。ウェイトローズのサイト内検索で「Japanese milk buns」は過去1カ月で617%増加し、売上高も同期間で27%伸びた[1]。背景には、ロンドンのハンバーガーチェーン「ブラックベアバーガー」がバンズに採用したことや、中華街の専門店「バンハウス」の人気がある[1]。かつて日本人が欧州のパンを独自に進化させたように、いま英国で「しょくぱん」が再発見されている。
「ドビーの墓」を迂回、ファンの声が変えた860億円計画
アイルランドと英本土を結ぶ全長125マイル(約200キロ)の高圧直流送電線「グリーンリンク」の計画は、映画『ハリー・ポッターと死の秘宝』でドビーが息を引き取るシーンの撮影地、ペンブルックシャーのフレッシュウォーター・ウェスト・ビーチを通過する予定だった[2]。プロジェクト責任者のサイモン・ラドラムがBBCの取材でケーブルの埋設ルートを示したところ、放送後に「何百件もの電話」が殺到したという。ラドラムは当初「架空の本の中の架空のキャラクターだ、何を言っているんだ」ととりまとめたが、同僚から「いや、これは本当に深刻な問題だ」と説得され、計画当局とルートの再検討に入った[2]。「我々は実際、青銅器時代の遺跡のかなり近くを通ったが、ドビーの墓は避けた」と彼はポッドキャストで述べ、多くのファンを安堵させた[2]。
パブとクラブに住みつく猫、グッズまで生まれた人気者
英中部コヴェントリーのパブ「オールド・ウィンドミル」に住む猫マーフィーは、もともと茂みの下で痩せ細って発見された[3]。現在は店の看板猫として、SNSでの評判を聞きつけた客が「マーフィーはどこ?」と尋ねながら初来店するまでになった。店のピーター・ダンクリーは「これまでこのパブに来たことがなかった人たちが、ソーシャルメディアで彼を見て来るんです」とBBCに話した[3]。同じ市内のクリエイティブ・ハブ「ファーゴ・ヴィレッジ」に現れる白黒猫ファーゴも、ハロウィンの夜に忽然と姿を見せて以来、会場のレイヴやライブに出入りする常連になった。会場バー「ザ・ボックス」のマネージャー、バーニー・ブロッサムは「大勢の人がこの猫に会うためだけに来る。みんな彼に恋をしている」と言う[3]。2匹の猫は現在、それぞれのオリジナルグッズまで持つ地域のスターとなっている。
「狂王」がシェイクスピアの聖地で吠える、舞台版GoTへの賛否
8月9日に開幕した『ゲーム・オブ・スローンズ:ザ・マッド・キング』は、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)が7年をかけて舞台化した前日譚だ[4]。上演時間は3時間45分、キャストは36人にのぼる[4]。主人公は“狂王”エイリス二世ターガリエンで、若き日のネッド・スタークやジェイミー・ラニスターも登場する[4]。英紙ガーディアンのマーク・ローソンは「壮観な舞台技術と現代的な共鳴がある」と評価する一方、タイムズ紙は「ペースとセックスと流血が足りない」と辛口の評を下した[4]。原作者ジョージ・R・R・マーティンはリハーサルに常時代理人を派遣したほか、8月8日の開幕夜には自らストラトフォードに足を運んでいる[4]。RSCは、『ハリー・ポッターと呪いの子』のようにロングラン上演を狙う[4]。
背景を少し
シェイクスピアの史劇は、ランカスター家とヨーク家の争いを描いた15世紀の薔薇戦争を題材にしており、マーティンが『ゲーム・オブ・スローンズ』の骨格をそこから借りたことは本人も公言している[4][7]。RSCがこの題材を選んだのは、壮大なファンタジーと英国演劇の伝統を直結させる計算だろう。一方、TikTokで流行する「ミルクブレッド」は、日本では20世紀に西洋の製パン技法を地元の口に合うよう改良した歴史を持つ[1][6]。パンも権力闘争も、海を越えて変容し、いま逆輸入のように里帰りしている。
日本から見ると
しょくぱんが「ミルクブレッド」として海外で熱狂的に受け入れられる現象は、食のローカライズが双方向に進む時代を感じさせる。ドビーの墓のエピソードは、虚構の死者に対する英国の大真面目な敬意がにじみ、日本のファンにもどこか通じる感覚かもしれない。何より興味深いのは、8月の一見とりとめのない三つの話題が、スーパーの棚から16世紀の史劇まで、同じ平面で語られるこの国の文化的な雑食性だ。スコーンと紅茶の国は、いまや醤油とミルクブレッドとドラゴンの咆哮で一日を終える。