リード
7月18日、エルサレム映画祭は9日間の会期のうち8日目を終え、19日の閉幕を待つばかりとなった。映画祭の中核会場であるエルサレム・シネマテークの庭は、夜になるとカクテルを片手に語らう人々と、焼きたてのピザの香りで満たされている[1]。初日の7月9日には、野外会場スルタンズ・プールに6,000人の観客が集い、モシェ・ローゼンタール監督の青春映画『Tell Me Everything』の上映に沸き立った[1]。だが、どの上映回でも本編が始まる前、もしミサイル警報が鳴ったらどこに避難すべきかを示す字幕がスクリーンに表示される[1]。熱気と退避指示が同居する会場の空気は、2026年夏のイスラエルそのものだ。
上映前の「避難指示」が見せた日常の亀裂
チケットは連日完売し、かつてない活況だと主催者は話す[1]。それも当然で、過去2回の映画祭はハマスとの戦争が続き、人質がガザに留め置かれている最中に開かれた。今回はその重苦しさがいくぶん和らいだとはいえ、戦争が完全に終わったわけではない[1]。今年の上映作品でとりわけ観客の心を掴んだのが、ユラ・ギドロン監督のドキュメンタリー『Find Me, Okay?』だ[1]。2023年10月7日のノヴァ音楽祭で拉致され、ガザの地下トンネルで11カ月間拘束された末、2024年8月末に殺害されたエデン・イェルシャルミさん(当時24歳)と、彼女の家族の苦難を追う[1]。タイトルは、イェルシャルミさんがテロリストから逃げながら警察の通信指令員に発した言葉に由来する[1]。イェルシャルミさんは、同じく拉致されたハーシュ・ゴールドバーグ=ポリンさんの母親が「美しき6人」と呼んだ人質グループの一人だった[1]。6人がハマスに射殺された報にイスラエル全土で約50万人が街頭に溢れた、あの2024年8月末の出来事である[1]。映画祭の喧騒と、スクリーンに映し出される喪失の記憶。その落差が、現在のイスラエルの精神の在り処を雄弁に語っている。
「9代目のエルサレムっ子」が守る、戦時下のパブ
エルサレム中心部からほど近いロシアン・コンパウンド地区にあるパブ「ハタクリット(The Record)」は、6月8日、イランとの新たな武力衝突の最中も営業を続けていた[2]。店内では速報にざわつくスマートフォンの着信音が響き、グラスが触れ合う音が重なり、デヴィッド・ボウイの曲が流れていた[2]。外交官やEU職員のグループ、ユダヤ人とアラブ人の長年の友人同士、取材ノートを覗き込む記者たち——それぞれが思い思いに夜を過ごす光景は、エルサレムに渦巻く分断のイメージとはかけ離れている[2]。共同経営者のひとり、アヴィ・ゴールドバーガーさん(50歳)は、自身を「9代目のエルサレムっ子」と称する[2]。既婚で2人の娘の父親でもある彼は、この街の本質は宗教と世俗の対立では捉えきれないと話す。「実際のところ、たいていはそんな話じゃないんです。私はこの街で、あらゆる背景、国籍、信仰を持つ人々から歓迎され、愛されていると感じています」[2]。彼の店は、夜の数時間だけ外部の緊張を括弧に入れ、人々がひとつの空間を共有する拠り所となっている。
年超、理想郷キブツの変貌と新しい現実
1910年、まだ「国」がなかったパレスチナの地で、ウクライナとロシアからの理想主義的な移民12人がキブツ・デガニアを創設した[3]。ガリラヤ湖の岸辺で穀物を育て、収入を共有する共同体モデルは、厳しい環境下で初年度から黒字を達成し、その後の建国運動の道標となった[3]。現在、イスラエル全土には約259の世俗キブツと24の宗教キブツが残り、過去の遺物ではなく、変化を続ける共同体として存在している[3]。キブツ運動リハビリテーション基金のCEO、ネリ・ショタン氏はキブツ生まれで、祖父母は1927年にキブツ・シェファイムを創設したメンバーだ[3]。彼は「デガニアとキネレトが最初でした。多くのキブツが国境沿いに築かれ、それは将来のイスラエル国家の境界線を定めるシオニズムの手段だったのです」と振り返る[3]。かつて国境を定義した共同体が、今や戦争による国土の揺らぎと、経済的自立を巡る現代的な課題の双方に直面している。
エルサレムから15分、古代ローマの泉で水遊び
エルサレム中心部から車で15分、ユダヤ丘陵のなだらかな稜線に囲まれたエイン・ハニヤに着くと、湧水が岩をくり抜いた短いトンネルから溢れ出し、復元された古代の水道橋を伝って大きな石造りのプールに注いでいる[4]。夏の強い日差しの下でも水は透き通り、冷たい。子どもたちがその飛び込み、水しぶきをあげて歓声を上げている[4]。プールはビザンチン時代のもので、エルサレム丘陵では最大級の古代灌漑用貯水池だった。そのすぐ上にはローマ時代の装飾噴水「ニンファエウム」の遺構があり、コリント式円柱の一部がいまもファサードに残る[4]。筆者は長年この場所を、荒れて目立たない脇道のひとつだと思って通り過ぎていたが、イスラエル自然公園局が整備し、今では市内近郊で最も美しい水辺の行楽地のひとつに変わった[4]。わが家の子どもたちは、いつもまっすぐに水へ駆け出していく。
背景を少し
ハタクリットの店名はヘブライ語で「レコード」を意味する[2]。共同経営者はロイ・バー=トゥール、ハガイ・シュテルンハイムの2名で、ゴールドバーガーさんを含めた3人でエルサレム中心部に3軒のパブを運営している[2]。このパブは、ユダヤ人とアラブ人、地元住民と外交官、宗教学生と観光客が同じカウンターに並ぶ、エルサレムでは稀有なインクルーシブ空間として知られる[6]。ゴールドバーガーさんは「エルサレムの重要性は、なによりもまず歴史に由来し、その歴史の多くは宗教と結びついています」と語り、信心と近代性を対立軸で見る見方を退ける[2]。彼の祖父の代から続く街の記憶が、店の空気そのものに滲んでいる。
日本から見ると
日本の居酒屋やスナックにも、戦後の混乱期から人々の憂さを預かり、立場の異なる者が肩を並べる機能があった。ハタクリットの「世界のことは、数時間だけ脇に置いておける」というゴールドバーガー氏の哲学は、新宿のカウンターや大阪の路地裏でも通じる普遍性を持っている[2]。一方、エイン・ハニヤのような都市近郊の水辺は日本にも数多いが、ビザンチンやローマの遺構と水遊びが隣り合う感覚はそう体験できるものではない。さらに、戦時下で開かれた映画祭の熱狂と喪失の同居は、災害や有事のたびに「自粛」の二文字が浮かぶ日本の風景とは対照的だ。祝祭を止めないこと、そして悲しみをスクリーンに焼き付けること——その両方を選び取る社会のありように、日常の重みと強さを見る思いがした。