リード
ソウルの夜は、配達バイクの軽いエンジン音と、路地裏から漂う香ばしいフライドチキンの匂いから始まる。かつては現地の言葉や決済手段の壁に阻まれ、旅行者にはハードルが高かった韓国のデリバリー文化が、今や外国人観光客にとって欠かせない旅のハイライトになりつつある[1]。スマートフォンを数回タップするだけで、深夜でも熱々の料理がホテルのロビーに届く。この手軽さが、現地の生活に溶け込みたいと願う旅行者たちの心を掴んでいる[1]。彼らが求めているのは、単なる名所観光を超えて、現地のリアルな日常を追体験することだ[1]。音楽やアート、クラシック、そして街角の人間模様に至るまで、ソウルの路上には今、生活者たちの熱気と新しいカルチャーの息吹が満ちている。
熱々のチキンを指先ひとつで――観光客がハマる深夜デリバリー
韓国の主要デリバリーアプリ「Baemin(配民)」を運営する優雅な兄弟たち(Woowa Brothers)が7月12日日曜日に発表したデータによると、2026年上半期における外国人観光客からの注文数は、前年同期比で4倍以上に急増した[1]。外国発行のクレジットカードや、微信支付(ウィーチャットペイ)、支付宝(アリペイ)、アップルペイなどのグローバル決済サービスを通じた注文数は331%増加し、取引額も308%の伸びを記録している[1]。現在、韓国の主要デリバリーアプリの中で、これら外国の決済手段に対応しているのはBaeminだけだ[1]。優雅な兄弟たちの担当者は、「観光客が深夜のデリバリーを韓国体験そのものとして捉えている」と語り、「韓国人が実際にどう暮らしているかを感じるためのもう一つの方法になっている」と指摘する[1]。
自作の音を響かせる――Stray Kidsが仕掛けるコーヒー香る新作
韓国のポップカルチャーシーンでは、アーティスト自身のクリエイティブな自立がさらに進んでいる。人気グループ「Stray Kids」のメンバーであるバンチャン、チャンビン、ハンの3人からなるプロデュースユニット「3Racha(スリーラチャ)」は、2026年8月7日午後1時に発売予定の10枚目のミニアルバム(EP)『This & That』に収録される全8曲の制作に参加した[2]。所属事務所のJYPエンターテインメントが公開したトラックリストによると、タイトル曲をはじめ、6月24日に先行リリースされたシングル「Run It」や「After You」「Farming」など、すべての楽曲に彼らの名前がクレジットされている[2]。今回のプロモーションでは、各楽曲をコーヒーのブレンドに見立て、テイスティングノートや焙煎度(ローストレベル)で曲の雰囲気を表現するユニークな映像や画像が公開され、視覚と味覚を刺激する演出がファンの間で話題を呼んだ[2]。自ら音を作り出し、ファンと直接つながる彼らのDIY精神は、現在のK-POPのダイナミズムそのものだ。
時間の超大作を3時間半に――ワーグナー『指環』の挑戦
クラシック音楽の分野でも、伝統的な枠組みを打ち破る大胆な試みが注目を集めている。リチャード・ワーグナーが26年の歳月をかけて完成させた楽劇『ニーベルングの指環』は、通常4日間にわたって計15〜16時間かけて上演される、オペラ史上最も壮大な超大作だ[3]。1876年にドイツのバイロイトで初演されてから150周年を迎える今年、韓国ではこの全4部作を約3時間40分(約235分)に凝縮し、一夜で上演するハイライトコンサートが企画された[3][6]。この野心的なプロジェクトは、2026年8月8日にソウル芸術センター、8月14日にブチョン(富川)芸術センターで開催される[6]。
切り貼りのパンク精神――新村のスケートショップに集うジン文化
ソウル西部の若者の街・新村(シンチョン)にある新しくオープンしたスケートショップ「Spin and Grind」では、7月11〜12日の週末、韓国のパンクおよびハードコアシーンの歴史を振り返るインディーズ冊子(ジン)の展示即売会「CUT & PASTE」が開催された[4]。会場には、ハサミで切り貼りされた手作りの温もりと、ざらざらした紙の手触りが残るファンジンが並び、多くの若者で賑わった。このイベントを主催した店主のVictor Ha氏は、2000年代初頭にカナダのトロントに留学していた際、現地のパンクライブハウスで手作りのファンジンに出会い、その魅力に取り憑かれた[4]。帰国後の2004年には、自身も韓国のシーンを記録するジン「Break the Shell」(略称BTS)を創刊し、2006年までに3冊を発行した経歴を持つ[4]。Ha氏はハードコアバンド「Things We Say」(略称TWS)のフロントマンでもあり、今回は自らのルーツであるDIY(自作)精神を次世代に伝えるためにフェアを企画した[4]。会場には、パンクバンドGeeksのギタリストKang Jun-sungが2005年に発行した「Army Life」や、RuxのWon Jong-heeによる「Red Flag」(2004〜06年発行)など、2000年代初頭の貴重なアーカイブから、最新のインディーズ写真集まで幅広く展示・販売された[4]。Ha氏は「もっと多くの人に自分自身のジンを作り始める刺激を与えたかった。韓国で出版されたできるだけ多くのジンをアーカイブし、今日のジンシーンの縮図を作りたかった」と、その情熱を語っている[4]。
背景を少し
韓国社会の底流には、今も儒教的な価値観が深く息づいている[5]。約30年にわたり韓国の政治や社会を研究してきたBernard Rowan氏によると、現代の韓国における儒教は、かつての特権階級のものから変化し、市井の人々の行動規範として生き続けている[5]。その代表的な存在が、労働者階級の中年女性たち、いわゆる「アジュマ(おばさん)」だ[5]。最近では「イモ(叔母さん)」や「ヌナ(お姉さん)」、あるいは「ガサ・グァリサ(家事管理士)」などとも呼ばれる彼女たちは、家族や地域社会を支え、他者との調和を重んじる現代的な儒教精神を体現する存在として再評価されている[5]。深夜のデリバリーを支える食堂の厨房や、街の清掃、あるいは家庭のケア労働を黙々とこなす彼女たちのバイタリティこそが、韓国のダイナミックな日常を実質的に支えているのだ[5]。
日本から見ると
ソウルの路上で起きている変化は、日本の私たちの日常とも深く響き合っている。例えば、外国人観光客によるデリバリーの急増だ。日本では、言葉や決済の壁から、旅行者が日本の出前やデリバリーアプリを気軽に使いこなす段階にはまだ至っていない。生成AIを用いたメニュー翻訳やグローバル決済のシームレスな導入は、インバウンド対応を進める日本の飲食業界にとっても大きなヒントになるだろう。また、クラシックの超大作を短時間で楽しむタイパ(タイムパフォーマンス)重視の試みや、若者がスケートショップに集まり、デジタル時代にあえて紙の冊子を手作りして手渡すDIY文化の再評価は、日本でも全く同じ熱量で共感できる現象だ。お互いの文化が国境を越えて影響し合う中、隣国の若者たちが今何に熱中し、何を面白いと感じているかを知ることは、私たちの暮らしを少しだけ新しくする視点を与えてくれる。