リード
世界の石油供給の約2割が通過するホルムズ海峡で、米軍とイラン革命防衛隊の武力衝突が7月7日から9日にかけて続いた[1][2]。2月28日の紛争勃発から和平協議入りしていた両国が再び軍事局面に戻ったことで、国際原油市場は供給途絶への懸念を織り込み始めた。7月9日のWTI原油先物は1バレル72.08ドルで引け、イランと米国が恒久和平を模索していた7月1日の68.5ドルから短期間で急騰した[2]。地政学的リスクと原油価格の関係を扱った学術研究はこれまで、「戦争やテロといった出来事が常に原油高をもたらすわけではない」との知見を積み重ねてきた。2019年の分析[4]は、地政学的リスクが需要減退を通じてむしろ原油価格を下げる場合があることを実証している。今回の相場は一見その反証のように見えるが、海峡封鎖という具体的な供給ショックが顕在化している点で、研究が予測してきた「別のシナリオ」に位置づく。ニュースの数字と研究の枠組みを突き合わせ、読者が「なぜ今、上がるのか」を分解できるようにする。
何が起きたか
一連の軍事衝突の発端は2月28日にさかのぼる。イスラエルと米国がイランへの攻撃を開始し、最高指導者アリ・ハメネイ師が死亡。イランは7月8日まで続いた長期の葬儀を経て、ハメネイ師をマシュハドのイマーム・レザー廟に埋葬した[1]。その最中の7月7日、米国のドナルド・トランプ大統領が停戦の終了を宣言。米軍はイランの軍事能力を削ぐ目的で90回に及ぶ空爆を実施し、イラン保健当局によれば7月8日と9日だけで14人が死亡、78人が負傷した[3]。イランは報復として、ホルムズ海峡の通航管理を主張するとともに[2]、クウェートとヨルダンにある米軍基地を標的に攻撃範囲を拡大した[3]。クウェート国防省のサウド・アブドゥルアズィーズ・アルアトワン大佐は、イランが発射した弾道ミサイル3発、巡航ミサイル1発、ドローン10機を迎撃し、少なくとも1人が負傷したと発表した。ヨルダン軍もイラン発射のミサイル8発を迎撃し、死傷者はなかったとしている[3]。原油市場はこの緊張を価格に反映した。7月9日の北海ブレント原油先物は1バレル77.9ドル、WTI原油先物は72.08ドルで引けた[2]。7月1日時点では、米イラン間で恒久和平に向けた技術協議が行われており、ブレントは71.5ドル、WTIは68.5ドルだった。2月27日(紛争前日)の水準を下回る価格で落ち着いていた市場が、停戦破棄と海峡での交戦報道を受けて一転、約5ドル上昇した格好だ[2]。イランの交渉責任者モハマド・バーゲル・ガーリーバーフは7月9日、ホルムズ海峡について「イランの取り決めのもとでのみ開かれる」と言明した[2]。
研究が示してきたこと
地政学的リスクが原油価格に与える影響については、複数の研究が単純な因果関係を退けてきた。2019年にフンカル・クニャド、ランガン・グプタ、チー・クン・マルコ・ラウが『Defence and Peace Economics』に発表した論文[4]は、1974年2月から2017年8月までのデータを用い、時変パラメータ構造VARモデルで地政学的リスクの影響を分析した。結果として、新聞記事の集計から作成した地政学的リスク指標が総じて原油価格に有意な負の影響を与えることを示した。この理由は、地政学的緊張が世界の経済活動を低下させ、石油需要を減退させる経路が強く働くためだ。論文は「すべての地政学的リスクを中東の供給ショックと結びつけ、原油高を予測する誤りを警告している」[4]。地政学的リスク指標そのものを構築したのは、2018年にダリオ・カルダラとマッテオ・イアコビエロが『International Finance Discussion Paper』で公表した研究[5]だ。両者は1985年以降の新聞記事から地政学的リスクの月次指数を作成し、湾岸戦争、9.11同時多発テロ、2003年のイラク侵攻、2014年のロシア・ウクライナ危機などで指数が急上昇することを確認した。地政学的リスクが実体経済や株式リターンを押し下げ、資本が新興国から先進国へ移動する効果を実証したのに加え、指数を「脅威」と「行動」に分解すると、悪影響の大半は実際の軍事行動よりも脅威の高まりによってもたらされることを見いだした[5]。2013年にルッツ・キリアンとダニエル・マーフィーが『Journal of Applied Econometrics』に発表した論文[6]は、原油在庫のデータを用いて投機的需要ショックを識別する構造モデルを構築した。このモデルに基づくと、2003年から2008年にかけての原油価格高騰は、供給の予想外の減少や投機的取引ではなく、世界の景気循環に伴う石油消費の予想外の増加によって説明される。一方で1979年、1986年、1990年の価格変動では投機的需要が大きな役割を果たしており、過去のすべての原油価格急騰が同じ要因で起きるわけではない点を明らかにした[6]。
ニュースを研究で読み直す
7月9日までの原油価格上昇は、2019年のクニャドらの研究[4]が警告した「すべての地政学的リスクを供給ショックとみなす誤り」を裏書するように見えるが、実態は研究の枠組みと矛盾しない。クニャドらは地政学的リスクが需要減退を通じて価格を下げる傾向を指摘した一方で、中東の供給途絶リスクを伴うケースが別に存在することは分析の前提に含めている。今回はまさに、ホルムズ海峡という物理的な石油輸送の要衝で交戦が起き、イラン交渉責任者が「イランの取り決めのもとでのみ開く」と言明した[2]ことで、供給懸念が現実味を帯びている。2018年のカルダラとイアコビエロの研究[5]が提示した「脅威」と「行動」の区別で見ると、現在は2月28日の開戦という「行動」を起点に、7月7日からの米軍による90回の空爆[3]とイランのクウェート・ヨルダンへの攻撃[3]という新たな「行動」が積み重なっている局面だ。研究が「悪影響の大半は脅威の高まりによってもたらされる」と結論づけたことと照らせば、すでに行動が先行している今回は、脅威の高まりが価格に織り込まれる余地よりも、実際の海峡封鎖や生産施設への被害に市場が反応する構図が強まる可能性がある。もっとも、現時点でホルムズ海峡の通航がどの程度物理的に制限されているかは明らかではない。2013年のキリアンとマーフィーのモデル[6]に照らせば、在庫変動のデータを見ない限り、今回の価格上昇が「供給へのフローショック」によるものか、「投機的需要のシフト」によるものかの特定はできない。7月1日には紛争前の2月27日より安値で取引されていた原油が[2]、停戦破棄の言明だけで短期間に5ドル近く上昇した経緯には、物理的な供給減少が未確認の段階での思惑買いが含まれていると推測できる。
残された問い
今回の価格上昇を分解する上で最大の欠落は、ホルムズ海峡の実際の通航量と、原油在庫の変動データだ。キリアンとマーフィーの枠組み[6]では、在庫の積み上がりが観測されれば投機的需要が価格を押し上げている証拠となり、逆に在庫が減っていれば実需による逼迫に近い。しかし、7月9日時点で公表された在庫統計はなく、市場参加者は限られた情報でポジションを取らざるを得ない状況にある。クニャドらの研究[4]は、地政学的リスクが需要減退を通じて価格に負の影響を与える経路を示したが、緊張の長期化が世界経済にどう波及するかは今回のデータではまだ見えない。紛争が数週間以上続く場合、航空貨物や海運の迂回コスト増、企業の投資抑制が需要を冷やし、価格を押し下げる可能性がある。イランのガーリーバーフが「イランの取り決めのもとでのみ開く」と述べた海峡管理の具体的条件[2]も、出典は詳細を伝えておらず、今後の交渉材料としてどの程度の柔軟性があるのかは不明のままだ。カルダラとイアコビエロの指標[5]を用いれば、今回の事象が過去の事例と比較してどの程度の「地政学的リスク水準」に達しているかを定量化できるはずだが、直近の指数は未公表である。イランがクウェートやヨルダンのアラブ諸国に攻撃を拡大したこと[3]が、新たな国家を巻き込む連鎖リスクの脅威を高めているかどうかも、指数の構成要素ベースで検証する必要がある。
日本から見ると
日本は原油輸入の約9割を中東に依存し、その大半がホルムズ海峡を通過する。7月9日時点のWTI原油72ドル台は、過去の原油急騰局面である2008年の140ドル台や2011年から2014年にかけての100ドル台に比べれば低水準だが、問題は価格の絶対水準だけではない。クニャドら[4]が実証した「需要減退経路」は、日本の産業にとっても、地政学的緊張が長期化することで輸出先の世界経済が冷え込み、原油価格の下落と自社製品の受注減が同時に起きる両面の打撃リスクを示唆している。キリアンとマーフィーの在庫分析[6]が教えるのは、今回の価格変動が投機か実需かを見極めるには、単に先物価格を追うだけでなく、在庫統計や実需データを注視しなければならないという点だ。日本のエネルギー政策当局や商社の調達担当者は、海峡通航の可否という二値的な情報に一喜一憂するよりも、研究が提供する複数の経路を点検する姿勢が求められる。カルダラとイアコビエロ[5]が脅威と行動を分離したように、「何が起きたか」よりも「次に何が脅かされているか」に市場が反応する構造を知っておくことが、調達判断の精度を左右する。