リード
トランプ米政権による新たな関税政策に対し、全米の半数に及ぶ25州の州司法長官らが8月3日、法的な差し止めを求めて米国際貿易裁判所に提訴した[1][2][4][8]。連邦最高裁判所が2月に執行を差し止めた広範な関税導入措置に対し、政権側が1974年貿易法301条に基づく「強制労働対策」へと根拠規定を付け替えて再導入を定めたためだ[1][2][4][8]。州側は消費者の費用負担増や企業の不利益を訴えるが、貿易政策の変遷と物価・経済的厚生の関係は、すでに経済学の領域で実証研究が積み重ねられてきた[9][10][11]。今回の事象を学術研究が解明してきた経済メカニズムの観点から読み直すことで、提訴が示唆する構造的な問題が浮かび上がる。
何が起きたか
事態の直接のきっかけは、トランプ政権が7月23日に発表した新たな関税措置だ[2]。米通商代表部(USTR)は国際供給網における強制労働問題を理由に挙げ、59カ国および欧州連合(EU)を含む60の貿易相手国・地域からの輸入商品に対し、10%から12.5%の関税率を設定した[2][4][6][8]。政権側は1974年貿易法301条が認める「不公正な外国の慣行」への対抗措置だと主張している[2][4]。これに対し、ニューヨーク州のレティシア・ジェームズ司法長官やオレゴン州のダン・レイフィールド司法長官ら、民主党主導を中心とする25州の提訴グループは8月3日、米国際貿易裁判所に訴状を提出した[1][2][4][8]。原告にはニューヨーク、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、デラウェア、ハワイ、イリノイ、ケンタッキー、マサチューセッツ、メリーランド、メイン、ミシガン、ミネソタ、ネバダ、ニュージャージー、ニューメキシコ、ノースカロライナ、オレゴン、ペンシルベニア、ロードアイランド、バージニア、バーモント、ワシントン、ウィスコンシンの各州が加わっている[6][7]。訴状では、強制労働問題と一律のグローバル関税の適用には合理的な関係が存在しないと指摘された[2][5][8]。また、連邦最高裁が2月に国際緊急経済権限法(IEEPA)などを根拠とした関税命令を無効化判断したことを受け、政権が単に別の法的規定へ言い換えて増税措置を継続しようとしていると批判した[1][4][6][7]。州側は、この関税が衣料品や電子機器などの日用品価格を引き上げ、家庭や中小企業に負担を強いるとして関税の無効化と既払い分の還付を求めている[1][4][8]。
研究が示してきたこと
貿易保護主義や関税の引き上げが国内経済に及ぼす影響について、経済学の研究は定量的な実証データを提供してきた。まず、パブロ・ファジェルバウム氏らが2019年に発表した研究(The Quarterly Journal of Economics掲載)は、2018年の米国の関税引き上げと相手国の報復関税の影響を分析した[9]。同研究によれば、課税対象となった輸入商品の価格は税抜き価格が下落せず、関税分が完全に国内の輸入価格に転嫁(完全パススルー)された[9]。その結果、米国の消費者と輸入企業が受けた損失は510億ドル(GDPの0.27%)に達し、関税収入や国内生産者の利潤を差し引いたマクロ経済全体の純実質所得損失は72億ドル(GDPの0.04%)となった[9]。同様に、メアリー・アミティ氏らが2019年に発表した全米経済研究所(NBER)の研究も、2018年の貿易摩擦において関税の全額が米国内の消費者に転嫁されたことを明らかにした[10]。これにより、中間財や最終財の価格が上昇し、2018年末までに毎月14億ドルの実質所得減少が米国にもたらされたとされる[10]。さらに関税の引き上げそのものだけでなく、貿易政策の不確実性(TPU)が企業活動を低下させる点も証明されている。ダリオ・カルダラ氏らが2019年に Journal of Monetary Economics に掲載した研究は、貿易政策の不確実性が高まると企業の設備投資が抑制されることを実証した[11]。また、カイル・ハンドリー氏とヌノ・リマオ氏が2017年に American Economic Review に掲載した研究は、政策の不確実性が低下することで企業参入が進み、消費者価格が下がって実質所得が増加することを示している[12]。
ニュースを研究で読み直す
今回の25州による提訴で焦点となっているのは、10%から12.5%という関税率が家庭や企業のコストを直接押し上げるという点だ[1][4][8]。ファジェルバウム氏らやアミティ氏らの研究知見に当てはめれば、関税分が外国輸出品の現地価格引き下げによって吸収される可能性は低く、輸入価格の上昇として米国内の消費者にそのまま転嫁されることが推測される[9][10]。オレゴン州のレイフィールド司法長官が指摘する衣服や電子機器などの日用品価格の上昇は、過去の研究が示した全額転嫁の構造と一致している[4][9][10]。また、最高裁による2月の無効判断を経て、政権が7月に根拠法を代えて再導入したという経緯は[1][2][6][7]、まさにカルダラ氏らが指摘した「貿易政策の不確実性(TPU)」が拡大する局面といえる[11]。企業にとっては、裁判所の判断で一度関税が無効化された後も、別の法的根拠によって再び二桁台の関税が課される状態が続いており、将来の貿易コストを見通すことが困難になっている[1][2][11]。ハンドリー氏らの研究が示すように、こうした不確実性の高まりそのものが企業の新規参入や投資判断を鈍らせる要因として働く[11][12]。研究は、関税による直接的な価格上昇だけでなく、法的な再定義を繰り返すプロセス自体が経済活動を抑制することを事前に示していた。
残された問い
一方で、これまでの研究が十分に応えきれていない領域も存在する。過去の研究(ファジェルバウム氏らやアミティ氏ら)の多くは、2018年当時に適用された特定品目の関税や相手国の明確な対抗措置を主たる分析対象としていた[9][10]。これに対し今回の措置は、1974年貿易法301条の「強制労働問題」という特定の労働基準を表向きの理由に据えつつ、60にも及ぶ国や地域に対して一律で10%〜12.5%の二桁関税を課すという手法をとっている[2][4][8]。供給網の人権課題対策という特定の名目と、広範な一律課税という手段が乖離している場合、企業がどのように供給網を再編し、あるいは法的な回避策を模索するのかについて、既存の研究モデルは十分な回答を用意していない[2][5][8]。また、2月に始まったイランとの戦争に起因する原油不足から、ガソリン平均価格が37%以上上昇するといった別のショックが同時に発生している中で[6]、複合的なインフレ圧力のもとで関税の純粋なパススルー率がどう変化するかという点も、今後の研究に残された問いとなる。
日本から見ると
今回の事象と学術研究の交差は、日本企業や政策担当者にとっても直接的な意味を持つ。米政権が打ち出した関税措置は59カ国およびEUを含む広範囲を対象としており[2][6][7]、グローバルな供給網に組み込まれている日本経済にも波及効果が及ぶ。学術研究が明らかにした通り、米国へ輸入される商品にかかる関税は輸出品の現地価格引き下げで相殺されず、米国市場での販売価格上昇へと直結する[9][10]。米国の消費者や企業の購入力が低下すれば、日本からの輸出や現地法人を通じた販売数量にも負の影響が及び得る。さらに、法的根拠を変えて関税を再導入する手法によって貿易政策の不確実性が高止まりすることは[1][2][11]、日本企業の設備投資や長期的な供給網戦略の策定を難しくさせる[11][12]。米国国内での法的争いの行方を注視しつつ、不確実性の長期化がもたらす投資抑制リスクを見越した対応が必要とされる。