リード
緑が一段と深まるエストニアの夏。7月27日、南東部セトマーの博物館では、青草が香る柵の中で跳ね回る子羊を囲み、訪れた人々が楽しそうに語り合っていた[1]。同じ日、バルト海に面したリゾート地パルヌでは、波音と潮風が心地よい旧市街のすぐ近くで、世界各地から集まったチェスプレイヤーたちが盤面に鋭い視線を注いでいる[2]。さらに、学術都市タルトゥの緑豊かな谷にはオーケストラの澄んだ旋律が響き渡り[3]、遠くイタリアからはエストニアの若手監督が手がけた映画作品の快挙が届いた[4]。大事件の発生や政局の緊迫ではなく、現地の人々が今何を楽しみ、何を慈しんでいるか。エストニアの現地メディアが伝える4つの話題から、この国の暮らしに流れる温かい空気と文化的な深みを覗いてみたい。
子羊に伝統の名前を セトマーの博物館が挑む文化継承
エストニア南東部のヴェルスカ農民博物館の柵のなかで、7月に生まれたばかりの3頭の子羊が元気よく駆け回っている[1]。茶色の毛並みが1頭、黒色の毛並みが2頭で、内訳はオスが1頭、メスが2頭だ[1]。同博物館は7月27日、この子羊たちの名前を8月2日まで来場者から募集すると発表した[1]。この取り組みは、動物の愛称募集にとどまらない[1]。来場者は近くのオビニツァ博物館で開催中の「セト人の名前展」を訪れ、セト地方の伝統的な姓や名から着想を得て命名を行う仕組みになっている[1]。ヴェルスカ農民博物館の農場主アグリス・クニンガス氏は、訪れた人が子羊の性格や姿を見てから名前を考えてほしいと呼びかける[1]。セト人の名前展のキュレーターを務めるオデ・オラス氏は「これも命名の伝統を少しでも生き永らえさせる一つの方法です。現代のセト人は歴史的な名前をあまり使いませんが、博物館は伝統の保持者としてこのように名前を普及させ、人々の意識に戻すことができます」と語る[1]。子羊たちはまだ人懐っこいわけではないが、展示物として来訪者の視線になれていく必要がある[1]。クニンガス氏は「触る必要はなく、目に見えることが何より大切です。昔のセトマーでは余分な人を畜舎の口にさえ立たせず、動物を守っていました」と述べ、往時の暮らしを伝える意義を強調した[1]。
リゾート地パルヌに集うチェス使い 名手ケレスを巡る知の祭典
夏の首都と呼ばれるエストニア西部の港町パルヌで7月27日、今年で7回目となる「パウル・ケレス記念チェスフェスティバル」が開幕した[2]。エストニアの名グランドマスターであるケレスの名を冠したこの大会は、今年のバルト三国で最大規模のチェスイベントだ[2]。7月27日から8月1日までの本戦には130人が参加し、8月1日と2日に行われるラピッド(早指し)およびブリッツ(超早指し)の大会には25カ国から160人以上の選手が加わる[2]。遠くニュージーランドやフィリピン、中国、インドからも選手が駆けつけており、大会の最高シードはフランスのグランドマスター、ラガルド選手が務める[2]。大会主催者のヘンドリク・オルデ氏によると、上位10人の平均レーティングは2500に達する[2]。エストニア国内には現在レーティング2500を超える選手がいないため、いかに層の厚い国際大会かがうかがえる[2]。ポーランドから3度目の参加となるグランドマスターのクシシュトフ・ヤクボフスキ氏は、妻と8歳の息子を伴った「チェス一家」で訪れている[2]。ヤクボフスキ氏は「パルヌはとても素敵な街で、旧市街やビーチを散歩するのが気に入っています。グランドマスターから初心者、未来のスターまで、さまざまな相手と戦える多様性がこの大会の魅力です」と語り、今大会での優勝に意欲を見せた[2]。
タルトゥの緑の谷を包むシンフォニー 16年目のサマーコンサート
エストニア第二の都市であり学術都市として知られるタルトゥで7月26日、夏の恒例行事であるヴァネムイネ交響楽団のサマーコンサートが開催された[3]。会場となったのは、緑の木々に囲まれたすり鉢状の地形が美しいカッシトーメの谷だ[3]。7月の最終日曜日にこの場所で演奏会が開かれるのは今年で16年連続となり、谷の傾斜地を埋め尽くした数千人の観客が夕暮れの爽やかな風とともに音楽を楽しんだ[3]。音楽監督兼首席指揮者のリスト・ヨースト氏のもと、ステージにはアイン・アンガー氏やクリスチャン・ヘグブロム氏ら6人のソリストが登場した[3]。ヴァネムイネ交響楽団の豊かな音が谷間に響き渡るなか、司会のタネル・ヨナス氏が進行を務めた[3]。さらに今年は16年の歴史で初めてプログラムにバレエ演目が組み込まれ、イェヴゲニ・グリブ氏とケトリン・オヤ氏が華やかな舞を披露して観客を魅了した[3]。現地に足を運べなかった人々のために、この演奏会の模様は8月8日午後9時35分から国営放送のエストニアテレビ(ETV)で放映される予定だ[3]。自然の地形を生かした開放的な空間で上質なクラシック音楽と舞台芸術を無料で楽しむこの催しは、タルトゥの夏の風物詩として市民に深く親しまれている[3]。
イタリアの若者たちを魅了した映画『モルテン』 北欧の新たな才能
エストニアの映画界から明るいニュースが届いた。イヴァン・パヴリュチコフ監督のデビュー長編映画『モルテン』が、イタリアで7月17日から25日まで開催された第54回ジッフォーニ映画祭で3つの賞を獲得した[4]。青少年のための映画祭として世界的に有名な同映画祭で、北欧の若いクリエイターが確かな評価を得た形だ[4]。今作は、15歳以上を対象とした部門の最優秀作品に贈られる「グリフォン賞」を受賞した[4]。この賞は国際的な青少年審査員によって選出される[4]。さらに、持続可能性や積極的な変化をテーマにした作品を表彰する「CONOU特別賞」と、若者の社会文化映画クラブが授与する「CGSクリエイティブ・パス2026賞」の計3つの栄誉を手にした[4]。映画祭の客席や審査員の大半は作品の対象世代である若者たちで構成されており、同世代の視点から自分探しや所属感といったテーマがリアルに描かれている点が高く評価された[4]。上映後の討論会では、映画が持つ穏やかで熟考を促すテンポや、主人公モルテンの多面的な造形、従来の青春映画のステレオタイプを排したフレッシュな語り口を称賛する声が相次いだ[4]。映画『モルテン』は、エストニア国内の映画館では9月11日から公開される予定だ[4]。
日本から見ると
セトマーの博物館では子羊の命名募集を通じて歴史的な名前の普及を図り[1]、タルトゥでは自然豊かな谷間で交響楽団の無料演奏会が開かれている[3]。またパルヌではチェス大会を通じて世界各地から多世代の選手が集まり[2]、イタリアの映画祭ではエストニアの若手監督による作品が評価を受けた[4]。それぞれの地域で固有の文化や環境を活かした取り組みが展開されている。